稽古のときに説明するために、この言葉の意味ってどういう定義だろうと検索すると、びっくりしてしまうことがあります。合気道関連で、聞いたこともない言葉はまずないと思っていますが、解釈にはさまざまなものがあります。
植芝盛平先生は技の説明でも、とにかく神様が出てきて、それを聞いた弟子たちはぜんぜん分からない。少なくとも私が知る限り、直弟子の方で「理解できた」と書籍等で明言されている方は、ひとりもいらっしゃらないのですから。
直弟子の先生方がそれを伝えるときには、ご自分の解釈。
それが直弟子の先生方の弟子へ、そしてまたその生徒へと伝えられているのですから、伝言ゲームどころか、解釈のそのまた解釈が加えられ、開祖が伝えられたかったこととは似ても似つかない、ということもあり得ます。
もちろん開祖の時代、武道は説明しないのが当たり前。教えられるのではなく、見取って盗め掛けられて学べが当たり前ですから、定義なんて当然ない。映像もなければ、変質しない方が不思議です。
直弟子の先生方の言葉から解釈する合気道用語
YouTubeなどでは、塩田剛三先生はこうだという説明動画が数多くあります。期待して見ていたら、塩田剛三先生とは何の関係もない人がこうだと説明していて、苦笑することも少なくありません。
私は他流出身なので、残念ながら塩田剛三先生にお会いしたこともありません。
だから何かしら出すのは映像なり書籍なり、あるいは養神館の発行物から、言葉として引用できるものがあるときだけにしています。
それが精晟会渋谷の稽古でも同じ、基本的なスタンスです。
こんな考え方で用語を説明しようとすれば、植芝盛平先生の直弟子の先生方の文章にあたることになります。
探す手間は多少かかっているので、ブログでシェアすることにしました。まとまれば別のコンテンツにするかもしれません。
定義しようなんて大それたことではなく、直弟子の先生方の文章を中心に紹介することで、先生あるいは流派ごとの解釈を多角的に知り、理解の的確なヒントになることを目指します。もちろん私は養神館なので、養神館に偏重しがちな内容になるとは思いますが。
今回は、合気道の根本『呼吸力』です。
合気道以外の武道や身体操作で、呼吸力という言葉を使うところは、まずないでしょう。合気道をしていなければ、習得することも、接することも難しい力なのかもしれません。
植芝吉祥丸二代目道主は、どうおっしゃったか
合気道の様々な流派で行われている、正座の両手持ちから行う呼吸力の養成法。合気会では呼吸法、養神館でも呼吸法、心身統一合気道では呼吸動作という名称だと思います。
ただ呼吸力を養成するための稽古法だという意味合いは、合気会が最も強いかもしれません。私の知る合気会師範は稽古の最後に「呼吸法」を行い、「これができれば何でもできる」とおっしゃっていました。
後述しますが、養神館ではそれほどではありません。
ともあれ、植芝吉祥丸先生の言葉です。
『精説 合気道教範』から引用します。
呼吸力とは、自分の重心すなわち臍下丹田と思われるところから、気・心・体の一致した力が、合気道の鍛錬によって流れるように出ていく総合的なものをさすのである。身体各部の集約された呼吸力が出ていく上で、もっとも大きな働きをしているのは腕であり、手であり、とくに手刀状に作用された場合である。
ほぼ「呼吸法」の動作と一致する説明かと思います。
さらに別角度からの説明もされています。
合気道における呼吸力は、身体各部のエネルギーを呼吸しながら大きな流れとなって、手先、足先さらに眼からも合気道のさばきと一致した螺旋状の円運動を起こしながら発散し, その対象物に食い入っていかねばならない。
力を入れたり、込めたりすれば力はその各部に停滞し、他に対してはまったく無力なものとなってしまう。したがって呼吸力が自在に出せれば、全身柔軟にして非常に安定できるのである。
最初の説明では、気心体の一致した力がメインでしたが、今度は動きの中での呼吸力の流れが主体のようです。そして力を入れてはいけないことが書かれています。
万生館・砂泊諴秀師範は、どうおっしゃったか
引用の引用になってしまいますが『開祖 植芝盛平の合気道』大宮司朗著には、砂泊諴秀先生の著書『合気道の心・呼吸力』からの抜粋があります。
※Amazonには『合気道の心・呼吸力』も出ていますが、写真も状態等の情報もなく高額です。
砂泊諴秀先生は開祖の直弟子で、昭和29年熊本市に合氣道万生館を開設されました。砂泊先生は独自の呼吸力による合気道を強調されていたと言われていますが、私が持っている本では呼吸力に関する記述はありません。
『開祖 植芝盛平の合気道』から引用します。
呼吸の調和がとれている状態、それが安定した姿と言えましょう。 安定した状態で力が出たとき、真の強さが出ることになります。相手を意識した時は安定を失います。総てを任せ切る気持ちにならないと呼吸力は出ません。
呼吸力は、いくら体力があっても出るものではありません。 呼吸力は、心の世界が相手と一体になる気持ち、万有と一つになる気持ち、むすびの心にならない限り出ません。相手を体力で倒そう、やっつけてやろうと思う心からは呼吸力は出ません。相手と一体になろうとする素直な心があってはじめて力は抜けます。力が抜けないと、相手の中に自分の力は流れません。相手の中に流れる力が呼吸力です。
「相手の中に流れる力が呼吸力です」と明確におっしゃっています。
この感覚、合気道を長年やっている人なら、それそれ!と言いたくなるかもしれません。
私の解釈では、呼吸法などで相手がこちらの手首を持っている状態。両者の腕はほぼ水平で、肉体的には真っ向から「ぶつかっている」状態なのに、相手の身体に通る・入っていく力の感覚のことではないかと思います。
しかしそれに「心の世界が相手と一体になる」ことが必要かどうかと言われると・・・
確かに対立しない心の問題はあるのですが、心の世界が先にあるわけじゃない。姿勢や技術的な側面が先だと、私などは思ってしまうのですが。
もしかすると砂泊諴秀先生は、熱心な大本教信者のご実家で育ったということなので、同じ大本教信者の開祖と共通した思考になるのかもしれません。
ともあれ、あえて引用の引用をしたのは「相手の中に流れる力が呼吸力です」のフレーズが理由です。
これをおっしゃっている直弟子の方を、他には知りません。
合気道の呼吸力とは、大東流の合気の言い換えなのか?
『開祖 植芝盛平の合気道』にはこんな文章があります。
さて翁の流れを汲む合気道では、大東流における「合気上げ」を「呼吸力の養成法」などと呼ぶことからも分かるように、合気をもって「呼吸力」と呼んでいる。なぜ呼吸力と呼ぶようになったのか?
その理由はなんなのか? そうしたことを判然とさせた合気道関係者を寡聞にして知らない。
「合気上げ」が「呼吸力の養成法」になったのかどうか。
似ているのは似ているけれども、大東流の合気上げは上に上げ崩すもの。合気道の呼吸法は、ほぼ前方に押し崩すもの。大雑把に言っても、ベクトルが違います。
合気とは大東流の各派で解釈が違うようですが、佐川幸義先生語録でもある『透明な力』では「相手の力を抜いてしまう体内の技術」とされています。
合気道の呼吸法で、「相手の力を抜いてしまう」との言い方は聞いたことがありません。
ただ合気道の「呼吸投げ」が「合気投げ」であった可能性はあります。
例えば精晟会の5級から3級の審査技に、「後ろ両手持ち合気投げ」があります。5級から3級でこの技をやるのは難易度高いですが、後ろ技すべての基本になります。合気投げという名称のある技はこれだけで、他はどれも呼吸投げです。私は他の技同様に、呼吸投げとしてやっています。
どうして合気投げとなったのかは不明ですが、想像すると、かつては合気道でも「合気投げ」だったのかもしれないなと考えています。
塩田剛三先生は、どうおっしゃったか
長い引用になりますが、塩田剛三先生が自著『合気道修行』で述べられていることは、とても分かりやすく、明確に呼吸力を説明されていると思います。
合気道を学んでいる人の演武は、背筋がピンと伸び、肩が落ちて、たいへんきれいな姿勢で行われます。それを見て、様式的だと感じる人もいるようです。 確かに、人を投げるというときにだれもが抱くイメージ、つまり体中に力がみなぎり、筋肉がうねって渾身の力を出すというような感じは、まったくありません。
しかし、じつはそこに合気道のいちばん重要な部分があるのです。楽をしているから動きが優雅なのでも、様式美を求めているから姿勢がいいのでもありません。(中略) 逆にいえば、そういう姿勢を維持した体の動かし方から、単なる筋力だけではないもっと威力のある力が生まれてくるからなのです。 合気道が力を使わないなどということはありません。むしろどんどん使っています。ただし、それは普通に考えられているような、体中に力をグッと入れ、筋肉をリキませるところから出てくる力ではないということなのです。
合気道では、そういうふうにして出てくる力のことを、呼吸力とか集中力とか呼んでいます。
呼吸力の特徴は、いくつになっても使えるところにあります。筋力はいくら鍛えても自然に衰えてきますが、呼吸力はそんなことはありません。正しい修練を積み重ねているかぎり、年齢には関係なく、いくらでも発揮することができます。
そのいい例が私です。私は七十歳をとっくに越えました。小柄ですし、筋肉隆々というわけでもありません。
ところが、そんな私がチョッとやっただけで若い生きのいい連中を投げ飛ばすものですから、皆さんが驚きます。なかには不思議な技を使っているのではないかと思っている方もいるようです。
本当は不思議でもなんでもありません。私は呼吸力を使っているのです。
メインは姿勢の力。そして「単なる筋力だけではないもっと威力のある力が生まれてくる」ですから、完全な脱力ではなく、姿勢とその動きを支える筋力は必要だということです。
この本の初版は1991年。その数年後、インタビューではこう語られています。
植芝先生は呼吸力呼吸力と言っておられたんですが、これは結局私が分解したところによりますと集中力即ち中心線の力。これはあらゆるスポーツに通じると思うんですけど、中心線の強さ、ぶれないということこれがやっぱり大事ですね。これが難しいことでぶれないようにしようしようとするとぶれるんですね。だから、それが自然に行われるような自分の足腰を鍛え上げて作り上げていく。それが出来れば、どんな格好しても構わない訳なんです。
植芝先生は何やらブラブラしているんですが、(動きが)ちゃんと生きている。そして、いざとなったときはスパッと変わってしまうんです。
『極意要談』
この文章は少し分かりづらいですが、植芝盛平先生の「呼吸力」を塩田剛三先生が分解すると、核心は中心線へのぶれない集中であると判断された。それができるように足腰を鍛え上げれば、どんな格好でも呼吸力を発揮できるという解釈でいいと思います。
集中という言葉が何度も出てきますし、養神館では普通の言い方なのですが、これでも分かりづらいですね。構造を整理して図にすると、こういうことかと思います。
塩田剛三先生の判断では、「呼吸力」の中で大きな割合を占めるのは「中心力」。
中心力が何かといえば、中心線の力。手足腰、全身が一線に乗っていくこと。それが養神館のベースになる力の使い方。中心力を意識し、養うために、
本来、合気道では無構えのところに「構え」を作られた。養神館の構えは攻防のためというよりも、常に中心線を意識することで、中心力を養うための動作であったり形であるのです。
そして「集中力」とはピンポイントの力。通常、集中力を使うのは当身だと思います。代表的なのは、塩田剛三先生の喉への一本拳。
養神館の呼吸力の解釈は、こういうことでいいかと思います。
だから正座同士で両手を持っての呼吸力の養成法よりも、構えでも基本動作でも技の中でも、中心力を養い、発揮することが重要視されているのではないでしょうか。
中心力を、あくまで呼吸力という言葉を使って説明するなら「強い呼吸力」と言っていいと思います。
養神館二代目館長・井上強一先生は、著書『合気道 呼吸力の鍛錬』の中で「動いてもゆるまない中心線をつくることが、呼吸力を発揮する基本である」とお書きになっています。
『合気道 呼吸力の鍛錬』にはそれだけではありません。
塩田剛三先生は、植芝盛平先生の受をとることで、相手の力を吸収し、無力化する力の使い方をつかみ、60代になってから完成されたと、井上強一先生はお書きになっています。
与える呼吸力と無くす呼吸力
井上強一先生の言葉を、『合気道 呼吸力の鍛錬』から引用します。
開祖は与える呼吸力ばかりでなく、相手の力を無力化し、吸収してしまう力の使い方を身につけていたから、 晩年になって力の強い人間を相手にしても、楽に制することができたのだ。
しかし、どうやれば相手の力を抜くことができるのか、そのコツを具体的には教えてくれなかった。だから若い頃の塩田宗家は、「お願いします」と何度も開祖に技をかけてもらい、受けを取る中から、自分の体でつかんでいったのだ。そのコツが自分のものになってきたのが、ここに紹介したように、40代半ば頃からだったのだろう。それが完成の域に達し、後に伝説となる自由自在に相手を翻弄する神技となったのは、自分自身の言葉によると60代になってからだという。
このように、塩田宗家は呼吸力という言葉を使いながらも、晩年には与える呼吸力と相手の力を無くす技の両方を使いこなしていた。無くす技は、本来の意味から言うと呼吸力の定義からははみ出すのかもしれない。したがって、「抜きの技」「合わせの技」「とらえの技」などという表現を使う場合もある。
しかし、晩年の塩田宗家は、この力を無くす技も含めて呼吸力と呼んでいた。相手に送り込む力ではないが、相手を吸収する作用も呼吸力の現れと解釈したわけである。与える力が気を放出する呼吸なら、無くす作用は気を吸収する呼吸であるとも言える。つまり、気を相手に与えたり、相手の気を吸収したりということを、自由自在に行なっていたわけである。これがまさに植芝開祖から伝授された呼吸力の真髄であろう。
相手の力を無力化し、吸収してしまうという表現は、前述の佐川幸義先生の合気の定義「相手の力を抜いてしまう体内の技術」と酷似しています。
しかし、与えると吸収するが並列すると、むしろ「呼吸」という言葉こそふさわしいと思えてきます。息を吐いて吸う。呼吸本来の意味を、全身を使って相手と一体になって行う。それが合気道で言うところの「呼吸力」なのか? そう思えてきます。
確かに塩田剛三先生の晩年の演武や、養神館の黒帯研修会の様子を記録したDVD『呼吸力の神髄』を見ていると、相手の力を吸収しているとしか思えない場面が出てきます。
しかし抜きの技術があるなら、どうして存命中に明確に示されなかったのでしょう。方法として、残されなかったのでしょうか。
ある養神館の指導者が、同じような疑問をTwitterでつぶやいていました。
私は「塩田剛三先生は、あくまで養神館は強い呼吸力が基本。抜きはその先にある、というお考えだったんじゃないでしょうか」とコメントしました。
そう感じていたのは、この文章を読んでいたからです。
井上強一先生の著書『合気道 絶対に崩せる無力化の手順』から引用します。
実を申しますと、故・塩田剛三館長は、あまり「抜き」を人前で披露することがありませんでした。その理由は、「抜きを見せるとそればかりを真似するようになって基本技がおろそかになる」ことを危惧されたためです。
しかし、塩田館長は、植芝盛平翁の抜き技を体験し、自らそれを身につけるべく、稽古をされていました。
昭和三六から三九年頃のことです。塩田館長が私と二人きりの時、私に言われました。「痛くない二ヶ条を教えてやろうか」
二ヶ条は痛いものだと思っていたので、私は興味津々で受けを取りました。今から考えると、塩田館長はそのようにして抜きの感覚を稽古されていたのだと思います。
つまり塩田剛三先生は、抜きを完成させるための稽古を、ほとんど人前では見せられなかったということですね。そして60代以降になってから、演武等で披露されることはあったと。
まあ井上強一先生にしても、抜きに関する本や映像を出されたのは、養神館退館後ですから。塩田剛三先生も井上強一先生もあまり教えたくなかった、ということかもしれません。
つまり呼吸力とは何なのかをまとめると
今回引用した文章は、違うことを言っているようで、強調しているところが違うだけとも言えなくありません。
いずれも力感をともなった筋肉の力ではない、ということが共通しているかと思います。共通項を単純化して言うなら、筋肉メインではない力の総称が「呼吸力」。
植芝吉祥丸先生は、気心体の一致した包括的な力をおっしゃった。砂泊諴秀先生は、まず心の問題だとされ、塩田剛三先生は中心力、つまりは姿勢と足腰の鍛錬を重視された。
これらの動きを外から見れば、それほどの違いはないはずです。ニュアンスの違いを見取る人が、いる程度で。
砂泊諴秀先生の「相手の中に流れる力が呼吸力です」は、自分が呼吸力を発揮するときの感覚として、とても役に立つと私は思います。
井上強一先生によれば、塩田剛三先生は「植芝盛平先生から与える呼吸力ばかりでなく、相手の力を無力化する呼吸力を学んだ」ということなので、相手と一体化し、全身で呼吸することが「呼吸力」なのかもしれません。
が、そこまで大きく解釈すると観念的すぎるので、とりあえず考えなくていいと思います。
筋肉メインではない力の出し方を、なんとなく掴んできたら、今度はそれを洗練させていく。どんな場面でも使えるようになったら、けっこうな上級者。
ただ養神館的な解釈だと、ふわっと掴んできたのをふわっと崩してるだけなら、呼吸力ではなく、抜きにいたる方向ですらないということになりますね。