top of page
202405トップ外用ヘッダ.jpg
合気道ブログ.jpg

手が離れないのはどんな理屈?



合気道には、片手持ち、両手持ち、綾手持ち、諸手持ち、後ろ両手持ちなど手首を持たれる設定の技が数多くあります。合気道をやったことがない人が思う一番の疑問は、「なぜ離さない」「手を離せばいいんじゃない」ということではないでしょうか。


いや、そうそう。防ぐには離しちゃえばいいんです(笑) 



真面目な話、女性に多いのですが「何かされる!」と危険を感じれば、手を離してしまいます。男性でも、けっこうな経験者でも離してしまう人はいます。

じゃあ道場でほとんどの人が手を離さずに稽古しているのは、どうしてでしょうか。サッと考えられる理由を列挙してみます。


1.型稽古としてのお約束は、離さないことだから

2.離したくても離せないから

3.離すと危険だから

4.無意識的に対抗してしまうから


私の個人的な考えだと、1、3、4どれもあると思います。通常の稽古では1、3、4の複合ではないでしょうか。

1.のお約束は、特に養神館では一般的にしっかり持たせます。合気道では持たれてしまったら、おしまいだという考え方もありますが、不意にがっちり持たれても動かせるかどうかを稽古するのが基本技だと思います。そういう前提なら、受は離さないという動機を義務感的に維持してしまうのでしょう。



3.はこういうことです。動画のテーマは違いますが、そもそも技の前提になっている手を取りに来る押さえにくる理由は、こういうことでしょう。手を離すと斬られてしまうから離さない。

仕手が刃物を持っている、あるいは素手でもとんでもない攻撃をされると受が思えば、必死で持っているはずです。


4.は対抗しようとする意識というよりも、反射的に掴んでしまうと言った方が近いかもしれません。動かされても簡単に動かされまいという気持ちがどこかにあれば、掴み続けます。合気道では「持たせる」とよく言われますが、原理的にそれがあるのは最初だけ。持続するなら、受に「やられてたまるか」みたいな気持ちがあるはずです。


2は、受が手を離そうとしても離すことができなくなるということです。どんな技でもできる人は、よほどの達人。私も二ヶ条で、ある特定の設定や相手でなら離されなくすることができますが、「どんなときも誰に対してもできる」には程遠いです。


こう考えてくると、2以外はたぶんに心理的要素。2は心理的要素はあるものの、身体操作的な技術が不可欠だと思います。


「手を離そうとしても離すことができなくなる」は、とんでもなく高度なはず。よくYouTubeなどで「手が離れない」とスローモションでやっているのは、旦那芸宴会芸みたいなものです。身体操作としてはどれだけ高度でも、ゆっくりとしかできない、特定の相手にしか掛からないなら武道にはなり得ないのではないでしょうか。



そもそも「手が離れない」技術が公になったのは、植芝盛平先生の大東流の師匠、武田惣角です。

参考までに、「手が離れない」に関する記述を追ってみます。




武田惣角と佐川幸義の離せなくなる合気


まず作家・津本陽氏の『孤塁の名人』から

『孤塁の名人』には、武田惣角の名が全国に知られるようになったのは、昭和4年、門人の海軍大将・竹下勇が雑誌に「武田惣角武勇伝」を発表したからとあります。


ん、海軍大将・竹下勇? 海軍大将竹下勇は植芝盛平翁の門人なんじゃないの?と思う合気道の人は多いでしょう。私も違うんじゃないのと思ったのですが、まず昭和4年は合気会本部道場の前身・皇武舘時代です。そして竹下勇は最大のスポンサーです。

流れは合気会の「本部道場について」にも書かれています。



当時植芝盛平先生の立場としては、大東流合気柔術教授代理だと思います。そして竹下大将は、武田惣角の門人でもあり、最大の支援者であったそうです。それだけではなく、第一回日本古武道振興会演武大会に大東流合気柔術として演武も行なっているし、さらに相撲協会の会長でもあったそうです。(『武田惣角と大東流合気柔術』武田時宗宗家談)

それ以前には、柔道のアメリカ普及に多大な貢献をされてたようです。富木流・志々田文明先生の論文にあります。(海軍大将竹下勇と柔道及び合気道への貢献




ともあれ、『孤塁の名人』です。引用します。

朝日新聞の記者が北海道に行き、昭和5年に武田惣角を取材しています。


惣角は柔道の有段者であるという逞ましい男に、右腕を両手でつかませ、八方へ投げ飛ばす。 投げられる者は受け身ができない。なぜか棒のように体をこわばらせ、爪先立っていた。人を投げるには、腕と足腰をつかわねばならないはずであったが、 惣角は両手首か片手首をつかませたままで、自在に吹っ飛ばす。尾坂(記者)は投げられた男に聞いた。
「どうして投げられるまえに、手を離さないのですか」
男は首を傾げていった。
「なぜだか分んねえだども、先生の手に吸いつかれたようになって、離れねえのっしゃ」 尾坂は惣角の体にわずかに触れたように見えた門人が、回転して吹っ飛ぶのを見て、人為を絶した技法だと眼を見張るばかりであった。
「今卜伝」と称する紹介文が、 技をかけている写真とともに新聞に掲載された。

「手が吸いつかれたようになって、離れねえ」が事実なら、想像を絶する技法です。現象的には手首なら手首が吸盤のようにならないと、そんな状態になりませんよね。


それがどれほどの難易度であったのか。

参考になる文章があります。武田惣角の合気を、さらに発展させたとまで言われる佐川幸義師範。その佐川師範の高弟である木村達雄氏の著書『合気習得への道』で、佐川幸義師範の実弟に話を聞かれています。

その中の「くっつける合気の会得」の一部を引用します。



兄貴は合気あげのコツ、合気で相手の力を抜くというのは、すぐにできたようですが、つかんだ手を離させない合気というのでしょうか、くっつける合気というのが、なかなか会得できなかった。「相手の握った手をくっつけて、そして倒すことがなかなかむずかしかった」と私に言っていました。
「武田先生しかできない技ではないか」というようなことを愚痴るような状態の時もあったんです。それが、いつできるようになったのかはわかりません。私も会社生活があったりして、その間しょっちゅう兄貴と会っているわけではありませんから。自然にできるようになったんではないでしょうか。今ではお弟子さんが、「あの合気は佐川幸義先生しかできないのでは」と言っているんですね。

佐川先生がなかなか会得できなかった技術を、凡人で、しかも毎日稽古しているわけでも、鍛えているわけでもない私たちが会得できます? 

子供の頃から修行され、父親と腕が擦り切れて血が出るまで合気上げをしたり、毎日四股や素振りを何百何千回と繰り返してこられた佐川師範が、体の合気を掴まれたのは70歳を過ぎてからだそうです。




まず習得すべきは「離されない」ようにすること


私は合気上げのコツ、相手の力を抜くなら、辛うじて理解していても、「くっつけてしまう」はさっぱりです。

だけど、私たちがやらなきゃいけないのは、「くっつけてしまう」もっと以前の問題として、「手を離されないこと」ではないでしょうか。持たれる技では手が離れてしまえば、なんにも技になりません。当身しか使えなくなります。


離せなく合気が複数の人によって裏付けられているのは、もしかすると歴史上数名かもしれません。それも「誰にでも」「どんな技でも」となると、皆無のような気がします。

どこに書いてあったか探せませんが、武田惣角が警察署で講習で柔道の有段者を相手にしていたとき、その相手は手を離してしまい、投げられなかった。惣角はとても悔しがり、佐川師範に明日お前が行ってやっつけてくれと頼み、佐川師範は掴み返して投げたという話があります。


相手が掴んだまま、自分から掴みかえさずに投げるのは、合気道の名称としては一般的に「呼吸投げ」です。「呼吸投げ」は一般公開の演武会が始まって以降の技で、道場の稽古で呼吸投げをしていると「そんなに簡単に人は投げられない」と開祖が怒られたという話もあります。



だからといって、「離せなくなる」現象が起こせないかといえば、そんなことはありません。

特定の状況、特定の相手になら「離せなくなる」ようにできる人は、星の数ほどいるはずです。

だけど大多数の合気道の人は、「離されないようにする」ことすら出来ないのではないでしょうか。


そこができなければ、片手持ち、両手持ち、綾手持ち、諸手持ち、後ろ両手持ちなど手首を持たれる設定の技は何の実用性もなさそうです。

まずは「離されないように動ける」ことを目標にすべきだと思います。




私が技に掛かりやすい理由は


まず、手が離されなければ技が掛かる。離されてしまえば、なんの力も及ぼすことはできないと理解してください。

そのあたりは、メインテーマではないものの、いくつか動画にしているので、まずそれを見てください。




この3本を見ていただければ、どういう風な身体の使い方、力の使い方をすれば、「手を離されにくい」状態で、相手を倒すことができるかの基本的な構造が理解できるかと思うのですが、どうでしょうか。



今回は、ブログですので、もう少しだけ突っ込んだ内容を書いてみたいと思います。

私が仕手ではなく、受のときどうかと言えば、とても技に掛かりやすい。いや、それはいわゆる合気的な力の使われ方をした場合です。普通の技だと、とんでもなく嫌な相手かもしれません(笑)


私は私の先生から、「あなたは素直に受けるねぇ」と言われたりします。つまりは劇的に掛かってしまうのです。

そんな様子を、撮影したものがあります。精晟会渋谷の稽古、私が指導してる場でですが、白帯の女性、しかも1年ちょっとしか稽古していない人の上げ手に、過剰なぐらい反応しています。他の人の反応とまったく違います。



もちろん指導しているのですから技を覚えてもらおう、感覚を掴んでもらいたい。そんな気持ちとスタンスですが、それだけではないはずです。

どうして私は、こんなに反応するんだろうと考えると、相手が何をしているのか、どんな力を加えようとしているのか、持ったところから情報を得ようとするのが常なのです。手首が固まったみたいなことから、腰が力んだ。肩が上がった。などが見なくても接点から知ることができます。

力の出どころや力みが伝わってくると、ほとんどの場合、こちらはびくともしません。


中国武術に聴勁という言葉がありますが、それと同じなのでしょうか。

センサーモードという言葉もありますが、まちがいなく手の内から相手の状態を調べるセンサーのようになっているのです。




力感を伝えず相手をセンサーモードにすれば離せない?


体質なのか性格なのか、とにかく習慣化しています。そのせいか、いわゆる力には反応できるのですが、あらがえない力を感じて反応してしまうことがあります。

そしてもしかしてもしかすると、このことが「離せなくしてしまう」ヒントなのでは思うようになりました。



私が劇的に動かされてしまうのは、握ったところから、相手の情報を得られていないときです。

上の『力感のない上げ手に開眼!?』の一場面をスクリーンショットした画像を見てください。

この動画から、なぜ掛かる?と自分の状態を分析してみました。


私が立っている位置は変わらず、足が回ってしまっています。足が回るためには、ある程度重心が浮かされているはずです。

つまり白帯女性から伝わってきているのは、ある程度上方へ向かう螺旋の力。


力はたぶんそういうことだとして、なぜ私の身体が回転しているのかを考えると、相手からの力感がほぼないので、触覚から情報を得られていない。さらに情報を得ようと、触覚が頑張ってしまっている。その結果、相手の腕と私の腕が一体化したようになっている。


そこに押してくるでもなく、上げてくるでもない、回転の力。それがもろに私の腕に伝わってきて、身体までが回転したのだと思います。


もう少し解像度を上げてマニアックに考えると、柔らかい力だから、回転の力が手の内でスリップしない。どんなに強い力で掴まれても、皮膚は少しだけなら動きます。しかし柔らかい動きだと、皮膚がそれほど動かずに前腕全体に影響が及びます。


上方の成分は、女性が手首を上げ始める以前に、肘を落としています。接触点を動かさずに、肘を下げているから結果として上方へのベクトルになったのでしょう。


さらにいうなら、彼女はリラックスしています。私を相手にしたときは、緊張していません。他の人を相手にしたときには力みが見えます。

リラックスしているからこそ、説明通りの動きがスムーズに出来ているのです。




技として離せないをどう成立させるか


しかし、これが技になるかと言えば、なかなか難しい。私がセンサーモードから、さらに情報を得ようとしてしまっているから、こういう反応になっているのだと思います。

それだけではなく、それなりに私の身体に力の通り道が出来ているからの反応ではないでしょうか。筋トレをガチガチにやって、どこかに強い力みが出やすい人相手だと、こういう反応になりません。



私のスタンスにしても、受として相手に感触を掴んでもらおうとしているから、こういう反応になっているのです。指導する側からの稽古法としては、それが正しいと思います。上位の人が下位の人と組んだときのスタンスとしては、相手を成長させる方法がいいと思います。

でも例えば四ヶ条を掛けてやろうと掴みに行ったのなら、こんな反応にはなりません。相手の腕を掴むではなく、相手に力を及ぼそうとする攻撃なら、力の流れがちがいます。



じゃあ筋トレをガチガチにやってるような人にも、離されないで技を掛けるにはどうすればいいか。

マニアックな話だし、私の妄想かもしれません。道場内の稽古では、それなりにはできます。


まず相手が掴んだ腕から、情報を得られなくする。つまり接点を動かさない。動かさないで、まず離れた場所から大きな力を加えて崩す。すると、相手がすがりつくようになる。いや、なりやすい。

たぶん、反射で手がかりになる情報を得ようとするのでしょう。



反射せず、それでも逃げようとする人はいます。ビビりやすい人もそうでしょうし、打撃系をやっている人でも、そういう人はいます。打撃の自由な攻防なら、反射的にステップや体捌きで間合いをとるのは当然です。

私がやっているのは、そういう人相手ならあまり大きな力を加えない。まず相手の力の流れのカウンターになるような力で、少し崩して、自由度が高まった自分の指を回します。そう二ヶ条です。

そのときに接点の位置はできるだけ変えない。そうしておいて相手の皮膚を擦り、少しだけ動かしています。すると離れない。


この説明も、『力感のない上げ手に開眼!?』の一場面を分解すると、こういうことかなと考えています。大したことではありませんが、少なくともこんなことができるのも、相手がどういう反応をするのか、よく分かっているからです。自分がやっている道場だから、知っていて当然です。


じゃあ知らない相手だとどうなるのか。「誰にでも」「どんな技でも」をやるための手がかりはないのと考えると、私には当身ぐらいしか考えられません。

持たれたところか柔らかい力をカウンターになるように加えて、間髪入れずに当身。当身でフリーズした瞬間に技に入る。そんなことかなぁーと、今のところは考えています。




手を離されないように稽古する


繰り返しになりますが、「誰にでも」「どんな技でも」相手の手がくっついてしまうのは、名人達人というより天才しかできなさそうです。


私たちが追求すべきは、もっと前段階。それは「手を離されないようにする」こと。たぶん「離されないようにする」要素や方法は、無数にあると思います。ひとつだけだと、ほとんど効果がない。



ここまでで書いていない構造だと、もっとも基本的なのは、引っ張らないこと。先に書いた接点を動かさないということと被りますが、引っ張ると、相手の手は外れてしまいます。養神館だと中心力。中心を維持して動くということは、体全体で動くこと。引っ張ることとは違います。


また相手の体軸が本人が認識しないぐらい僅かに傾き、それをこちらの腕が支えている関係になれば、相手は手を離しにくくなることも、比較的ポピュラーです。ただそれは、ゆっくりとした動きじゃないと成立しないはず。

いやいやゆっくりでいいから、どういう状態や状況があるのかを稽古で体感する。感触を掴んで、それを複合的に組み合わせて、また稽古で検証してみるを繰り返せばいいと思います。


実際そんなことが忖度なく、少しできるだけで、かなりの上級者ですよ。







コメント


Popular articles

New article

bottom of page