年末に稽古が終わってからの帰り、電車の中で有段者から聞かれました。「なんでこのところ護身術ばっかり稽古してるんですか?」と。
いや、ばっかりってことはないんです。12月は10回稽古機会がありましたが、そのうちの4回でそれぞれ30分ほど護身術をやりました。多くの合気道道場では、あまり護身術としての稽古はやらないでしょうから、そういう疑問になったのだと思います。
「審査が終わったから、審査から遠いことをこのタイミングでやってるのよ。護身術だけじゃなくてね」と答えました。
審査では基本技や自由技を、型通りにやることが求められます。でも型としての設定は、とても限定的です。
基本技では、たとえば手を持って引かれるか押されるか。養神舘では(一)の技(二)の技ということになります。でもその設定は、現実に起こりうるシチュエーションではありません。
手を取られて振り回されたり、反対の手で殴って来たり、膝で蹴ってきたりとさまざまな設定が考えられますが、型から離れた設定を稽古したいとなれば、それは護身術ということになると思います。
塩田剛三先生は『合気道修行』の中で、「合気道は理合の稽古」「理にかなった動きが出来ていれば、大きく怪我をすることはない」とお書きになっています。
もっとも多人数相手だと「一瞬の勝負になりますので、当身や瞬間の投げじゃないと身を守りきれません」と続けられ、さらにこう書かれています。
私の師匠であるところの植芝盛平先生も次のように言っておられました。
「実戦における合気道は、当身が七分、投げが三分」
有名なフレーズですね。
本当に危機的な状況なら、当身のバリエーションや一挙動の技しか使えないということだと思います。
うちでも一挙動の技を稽古しますし、重要視していますが、茶帯と有段者のみです。受け方も含めて、白帯の人には危険すぎると思います。
でも今回稽古したのは、そんな危機的な状況ではなくて、もっと手前の状況です。
稽古した護身術の一部は、YouTubeに上げています。3までありますので、よろしければご覧ください。
身近な関係の中での護身こそ必要?
護身術と言っても、世の中に出ている多くの護身術とは異なります。
できるかどうかは別にして、一般的に言われている護身術は過剰防衛になりそうなものがほとんど。
うちでは日常にある会社の人や近しい人から受けるセクハラやパワハラを、どう受け流すか。そこから始めます。相手が酔っ払っていたら、何をされたのかよく分からないレベルの対応こそ必要だし、現実的に有益だと考えています。
実際、セクハラやパワハラの基準は、世代やコミュニティによって大きく異なります。世界的な基準はどんどん変化しているのに、何十年も前の風景が当たり前だと思っている人だっています。 凶悪な人ではないけれども「これぐらい普通だろ」としか認識していなければ、阻まれたときにキレてしまうことだってあるでしょう。普通だは、言い換えれば常識で当然。自分が正しいという感覚。
最近だと、ある政治家が「裏金は文化だ」と発言していて笑えました。長い間続いている日本の文化で、咎められるものじゃないという理屈なんだと思いますが、そういう人はどこにでもいます。
元刑事で台湾在住の武術家で間接護身アドバイザーがお書きになった『間接護身入門』という本では、犯罪白書の数字から「凶悪犯の50%・殺人の89%は顔見知り」と帯のコピーにも入れられています。
間接護身の定義は
"護身術とは直接的な護身に終始するものではない"と、私は考えています。
草食動物が危険を咄嗟に察知して逃げるかのごとく、暴力だけにとどまらず、自分に対して悪意がある者に対して、相手が行動に出る前に察知して回避する。または相手がそのような行動に出ないように習慣的に配慮し危険な人物との縁を深くしない。
と、お書きになっています。
多くの護身術は、どう戦うかの戦術。
でも事前に察知したり、察知した段階でどう「いなす」かの方が遥かに重要だと思います。近づかずに回避できればいいですが、接触してしまったら「いなす」がないと回避できません。
言葉として「護身」と「護身術」を使い分けるなら、護身は戦略的なものかもしれません。究極の護身戦略は家から出ないことですが、そうはいかないので危険に出会ってしまうし、回避するための心構えや術(すべ)が必要になるのだと思います。
護身術以前に、護身としての合気道
男性でもそうですが、日本に住んでいればストリートファイトに巻き込まれるよりも、地震の被災者になる確率の方が高そうです。
あるいは東京周辺なら、電車の中で通り魔的な犯罪に遭遇する可能性だって低くないかもしれません。
そうすると、どんな戦術よりも、走れる、あるいは難所でも歩ける靴を履くのが大切だと言えるでしょう。
今は「どこで何をしていて、どんな格好をしていようと個人の自由だ」という主張が強くあります。正論だと思います。体験に来られた女性で、そう主張されたことがあります。
私は「その主義のままで、なんとかなる護身術は世の中にないと思うし、うちではまったく無理です」と答えました。
例えば「どんな服を着て誰と飲んで、どこで酔い潰れていても私の自由だ」となると、どうでしょうか。正論ではあるけれども、それは観念的な話。安全面から見れば、どうでしょうか。世界的にみれば日本の治安がいいといっても、犯罪の被害にあうリスクは、自分で負うしかありません。
今でも日本の田舎では、鍵を掛けない家ばかりの集落はあると思います。でも東京などの都市部では将来的にも、そんな世界が実現することはないのではないでしょうか。
戦略のミスは、戦術でカバーできない。がセオリーです。いやなんとかなる場合もあると思いますが、損失/犠牲が大きいということです。
戦ってるつもりじゃなくても、あえて危険を呼び込んでる。もっとも避けなきゃいけないのは、あえて呼び込んでしまうことではないでしょうか。
養神館の基本技は、概ねしっかり止めることから始まります。最初から流すや捌くばかりやっていると、相手の力の流れが体感できません。それに打ち負けて押し込まれたり、止められてしまったときに、どうしようもなくなります。
止めてから「ぶつからない」状態にもっていくのです。
大戦略としては、遭遇しないこと。
でももし遭遇してしまったら、被害を最小にするために、まず止める。そこから「ぶつからない」ように相手を崩す。
この流れで、日々の稽古は成り立っていると思います。
技の設定以外のことをすると意義
「それにさ、理合の理解がものすごく進んだと思わない?」と私は続けました。
護身術として私がやったことは、どれも合気道の動きを使っています。理合としては、基本技として使われている理合以外のものを使っている場合もあります。
どういうことかというと、例えば側面入り身投げ。
合気道をやっている人に分かりやすく言うなら、たぶん側面入り身投げという名称は養神館だけ。相手の側面に、自分の正面をつけて投げる技です。ほかの流派では、呼吸投げになっていたりして、くっついたりしないかと思います。
武道の世界では他流のやり方と異なるから、あんなのはダメだという人がよくいます。でも合気道の場合は、流派や会派によって状況設定と稽古方法が違うだけで、根本になっている理合がそれほど異なっているとは、私は思いません。
ただ理合を知ったからといって、それだけでは動けません。動けるようになったからといって、誰にでも効かせられるといえば、そんなことはありません。
再度、塩田剛三先生の『合気道修行』から、長いですが引用します。
ここで勘違いしてはいけないことがあります。それは、基本技を覚えたからといって、それで理合が身についたわけではないということです。
ましてや、必ず修行者の興味の対象となる「小手返しはこうしたら効く」とか、「二ヶ条はこうやって締めたほうが痛い」とかいうことは、それほど大切な問題ではありません。もちろん、修行者として当然身につけておくことではあるのですが、そういったレベルで合気道の技を「効く」「効かない」と論じても意味はありません。
ひとつひとつの技をどう効かすかではなく、その根本に存在する理合を身につけることが重要なのです。
それが理解できないと、いざとなったときに「相手が稽古と同じように動いてくれなかったから、技がかからなかった」などと情無いことになってしまいます。そして「合気道は役に立たない」と思いこんでしまうのです。
合気道を成り立たせているものは、個々の技ではありません。理合なのです。
理合がそれなりに理解できてていて、動けるようになっていれば、状況設定が少々変わったところで、技として効かせることはできるはずです。
塩田剛三先生が書かれている「相手が稽古と同じように動いてくれなかったから、技がかからなかった」のなら、それは理合が理解できていないか、もしくはそれで動ける精度が低いということです。
分かりやすく言えば、自分より軽い人や筋力がない人には簡単に効かせられます。それは理合を体現しているのではなく、体重や筋力でやっているのです。
自分より重い人や筋力のある人に効かせるには、なにより理合を体現する精度。そして身体が練れているかどうかだと思います。
逆に基本技の設定から離れてやってみると、いかに理合通りに動けないかが分かります。私もそうですが、普段の稽古でも設定にはない抵抗をされると、つい焦ってしまいます。
そこを理合通りに持ち込むか、あるいは状況が変わったのだから他の技に移行するか、などを瞬時に判断できないと対処できません。
実際の護身術的な状況では、まずは緊張を抑えられるメンタル。
身体ということだと、合気道にスピードは関係はないと言っても、それは基本技だけのこと。何が来るのか分からない状況だと、俊敏性は確実に必要でしょう。
理合に持ち込む以前の、さまざまなコツやテクニックは、膨大に必要かもしれません。
そんなことを全部習得できる合気道の道場は、どこにもないかもしれません。
じゃあ合気道やったって、意味がない? いや、ゼロか100かというような思考は、頭が悪すぎます。それってダイエットしなきゃいけないけど、どうせ痩せられないから何もしない。お金を貯めなきゃいけないけど、どうせ貯められないから収入は全部使っちゃえと言ってるのと同じです。
現実に対して有効な入り口
今までにも、護身として合気道をやりたい。どころか、男性をやっつけたいと言って、体験に来られた女性は何人もいます。
私が「やっつけるのは無理です」と言っても、入会された人たちもいます。
その中には、稽古しているうちに「体格のいい男性陣と稽古してると、どんなに技を極めたとしても、最終的に力で潰されちゃうだろうなってことを体感」したけれども、逃げるための隙を作ることはできるなと感じた女性もいます。
それって凄い気づきで、潰されちゃうからどうするのか。諦めるんじゃなくて、生き延びる。目的はやっつけることじゃなく、安全に逃げること。逃げるには、隙を作ることが必要だし、走ることとか、いろんなことが必要なはずです。
稽古がそこにつながったのなら、素晴らしいことです。
たとえば火事になったときに、どうするのか。
オフィスビルなどでは、避難訓練などで消火栓を使うことがあると思います。屋内消火栓はひとりで使えるものもあるということですが、訓練で実際に使ってみないと、本当に火災が起こったときに使えなさそうです。実際に使ったら、水の勢いでひっくり返ってしまうことだって、あるかもしれません。
消化器なら、どうでしょうか。
消防法では、どんなに小さな店でも火器を使う店には、設置が義務付けられているそうです。
説明図を見ると、簡単に使えそうに思います。でも出来れば、訓練しておいた方がいいですよね。そうすれば、もしものときに慌てる確率が減るでしょうし。もしものときに使い方の絵を読んでいたら、何秒かでも遅くなるわけですし。
消化器という道具はある。
だけど本当の火災になったとき、現実にどう使えばいいか。知識があり、体を使ったシミュレーションを行なっているのといないのとでは、初期消化に大きな差がつきそうです。
うちで12月に稽古した“護身術”は、いわば消化器の使い方シミュレーションみたいなものです。火災が大きくなってしまったら消防署の到着を待つしかないけれども、火の不始末かなにかで燃え出したとき、どう初期消化するかのシミュレーションみたいなものです。
火の粉がふりかかっても、ぼやのうちに消し止められたら上出来ですよね。
1年のうちに何度か、そんな稽古をしておけば、合気道の、現実への有効性は増すはずだと考えています。
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