もちろん関節の可動域は人によって様々。運動不足や加齢だけではなく、同じ姿勢でいる時間が長く、使わない筋肉があれば、衰えて硬くなるといいます。
そこを否定するつもりはありませんが、合気道をするのに困るほど可動域が狭いという人に出会ったことがありません。そのことに思い至って、硬いというのは、ほとんどメンタル、精神的な緊張の問題じゃないかと考えるようになったのです。
四十肩五十肩で腕が上がらない、痛いという人はいましたが、それはカラダが硬いというのは、ちょっと違う問題だと思うので横に置いておきます。
合気道は自然であることを最上とする、はずです。
技を掛けるのも掛けられるのも、関節の過剰な可動域を必要としません。いや過剰なと書きましたが、大股で動いたりしませんから、可動域ぎりぎりの動きを必要としません。スポーツでも武道でも、過剰に柔軟性を求めるものは少なくありませんが、合気道はそうではないと思います。
でなければ、高齢になっても続けられるわけがありません。
塩田剛三先生はその著書『合気道修行』の中で、こうおっしゃっています。
私はよく風呂で先生の背中を流したり、あんまをさせられたりしていたので実際に触わっているんですが、とても弾力性があったことを覚えています。(中略)
開祖である植芝先生がこういう体質だから、合気道をやる人間が皆、同じような体を作るべきかというと、そうではありません。
先生もよく言っていました。体を作るというのは自分の心構えであって、自分に即した体を作る、それでいいんだ、と。「だから塩田はん、ワシと同じ体を作ったとしたら、あんたは自然には動けん」とも、おっしゃってました。
つまり、植芝先生が言うには、合気道は自然であることを最高とする武道だから自分が無理になるような体を作ってはならないということなのです。 たとえば、齢を取って体が硬くなってきたからといって、無理矢理に若いころと同じような柔軟体操をやったんじゃ、筋をおかしくしてしまう。
硬くても、その人にとって、無理になるようなストレッチは必要がないということです。違う言い方をすれば、硬くても大丈夫だ、ということではないでしょうか。
メンタルじゃないの?と考えるようになった理由
養神館には、体の変更(一)という基本動作があります。
少し基本動作を説明しておくと、養神館の基本動作は塩田剛三先生がおつくりなったものですが、戦前の植芝道場で行われていた体捌きの基本と整理運動などが元になっています。
二代目館長 井上強一先生は著書『合気道 呼吸力の鍛錬』の中で、「旧来の基本動作を理合にのっとり、より明確に稽古のテーマを定めたものが、現在の構えと基本動作六本である」とお書きになっています。
基本動作六本とは、臂力の養成、体の変更、終末動作の3つで、それぞれ押された場合の(一)、引かれた場合の(二)があります。これで六本です。
さらにそれぞれに単独、相対、剣操法があります。
その中の体の変更とは、体捌きの基本です。体の変更(一)は、下の画像のように片手を持たれて引かれた場合の前に出る動作、入り身の動きです。中段への突きなどに対しても同じ動きですし、剣を持っていても同じです。
私はこの体の変更(一)を単独で行う稽古のときに、よく指先を持ちに行きます。動きがぎこちない、硬いなというときに、指先をつまんで導いてあげるのです。するとたいがい指までガチガチに硬いのです。どころか、肩・肩甲骨まで固まっている感じが伝わってきます。
持たれるから緊張するは自然なのか?
「力まないで」と言うと、「持たれているから緊張する」と返ってくることがあります。
いや単独で行っていても、相対で手首を持たれていても同じように出来なきゃいけないから、たかだか指先を軽く「持たれているから緊張する」ではぜんぜんダメです。
「持たれることで力む」のは、当たり前の心理的反応のように思えますが、合気道ではその反射を抑えることも重要な稽古です。観念的な言い方をすれば、心が乱れている。心が乱れるから身体も乱れてしまう。
もっと分かりやすく言うなら、相手がガチ気味で打ったり打ったり突いてきたりする。そのときにビクッとしたり、固まってしまったらどうでしょうか。とっさにそんな反応が出たら、すぐには動けません。ふんわりした打ちや突きなら平気だけど、なんてことなら動作の形だけ覚えた状態です。
軽く持たれても力んでしまうのは、それよりもダメ。そう、しっかりと認識しておきましょう。
「自然であることを最高とする」の“自然”とは、相手がどうであれ、自分は自然体で淀みなく動けること。もちろん難しいですし、私も偉そうなことは言えませんが、どんなときでも自然体で平常心で動けたら無敵、とまではいかなくても、自己最高のパフォーマンスができるはずではないでしょうか。
硬くなると先端から動けなくなる
それに何より基本動作の稽古で「持たれることで力む」人は、ひとりでやっていても力んでいるのです。動きが硬いと私が思うから、指先をつまみに行っているのです。
なぜ、そんなことをして動きを導いているかというと、どこから動くかを感じてもらうためです。
片手で持たれた状態で考えてみると、持たれたところが緊張していれば硬くなります。硬くなったまま動けば、必ずぶつかります。
ぶつかりをなくすためには、まず力まず、柔らかい手首を維持すること。そのためには、自分の指先から動く。さらには剣などを持っていると仮想して、剣先から動くこと。イメージを使った動き方ですが、そんな感触を体感してもらうために、指先をつまんで導いてあげるのです。
繰り返しになりますが、持たれて力んでしまうと、自分にとっての自然な状態ではありません。そんな風に言うと力まずにどう動くんだと反論されそうですが、動きだしは重心の落下。前足の膝や股関節を緩めることで、カラダは前に倒れようとします。その力を使います。
ところが腕はもちろん、カラダがガチガチに硬くなっていると、その重心が落下するエネルギーが相手にまで通りません。持たれたところに追突事故のようにぶつかります。ぶつかれば、相手は反射的に耐えようとします。
追突を避けるには、自分の指先が動いて、そこにカラダが導かれてついていく。
すべてではありませんが、入み身突きなど合気道の当身の多くは、手が先導して、そこに身体がついていく。触れたところに、重心移動の運動エレルギーが届くというものです。多くの打撃のように、腰のねじりや腕の屈伸のパワーではありません。
この動画の後半では、一本拳で拳が先導して、後から身体がついていっています。そのとき当たってから肘を曲げていますが、その理由は、危険なので重心移動の運動エレルギーを自分の腕で吸収し、伝わらなくしているのです。
この当たった(触れた)ところに身体がついていく、先端から動くというのは、当身だけではなく合気道の核心的な身体操作だと考えられます。
相手の情報を得るけれども自分は与えない
合気道の当身の多くが、手が先導し身体がついていく。触れたところに、重心移動の運動エレルギーが届くという構造。それは、当身だけじゃないと先に書いたのは、片手持ちや両手持ち、両手持ちなど手首を持たれる技でも同じです。
まず持たれた場所(この場合は手首)を意識しすぎたり硬くすると、相手の身体の状態、つまり何をしようとしているかが分からなくなります。分かるためには、力を抜いて、いわばセンサーモードにする必要があります。
もちろん抜くことで腑抜けになってしまうと、掴んできた相手に好き放題されてしまいます。それに言及すると話がややこし過ぎますので、今回は触れません。
そして硬くなると、そこに力のぶつかりがあるので、相手は反射的に対応しまうのです。
じゃあどうすればいいかというと、持たれた前腕は柔らかく、先に書いたように指先から動かせばいいのです。もっといいのは剣などを持っていると仮想して、剣先から動くこと。指先からだろうが剣先からだろうが現実ではなく、そんなイメージで動かすつもりということです。そうすると、たぶん筋肉が、イメージに近い状態で動くのだと思います。そして相手には、動かそうとする力の感覚が伝わりにくい。だから反射で対応されないのではないでしょうか。
上の2つの画像は片手持ち一ヶ条抑え(一)で、丸く相手の手を上げようとしているところです。下の画像では、実際に先に指が動いているから、そこだけブレている様子を見ることができます。
つまり心をコントロールするに戻ります
まとめると、合気道は身体が硬くてもできる。病気やケガの場合をのぞけば、関節の可動域が問題になるほどの動作は求められない。
それなのに硬くて行き詰まるのは、メンタルの問題。緊張し、硬くなるような反射を抑えないと、技の本質的なところにところに行けない。
ひとりでやったらできる動きが、持たれるとできなくなるのは、ほぼ心の問題が出発点。少なくとも心をコントロールできてないのだと考えるのが無難です。
道場以外でも、少しの緊張で硬くなっていれば、硬いことが心に影響して、さらにカラダが硬くなってしまうかもしれません。硬いことが日常になれば、その部位は動かなくなります。動かない部位があると、そこをカバーするために、身体のあちこちが硬くなっていくのでは、と考えています。
Comments